ふ さ い じ
三光山 普濟寺
自然に抱かれた静寂の地
ページ
ごあいさつ
三光山清光院普濟寺(ふさいじ)第33世住職の髙橋秀城(たかはし しゅうじょう)と申します。
450年以上の歴史がある普濟寺(普済寺)は、四季折々の草花に囲まれた心落ちつく寺院です。境内のそこかしこにいらっしゃる石仏さまが優しく微笑み、いつも穏やかな時が流れています。
境内には御本尊大日如来をはじめとするたくさんの仏さまが見守ってくださっています。時には深呼吸をしながら心に平穏を感じてみませんか。御納経(御朱印)や御写経も行っております。お近くにお越しの際には「金枝城」ゆかりの当寺院にお気軽にお立ち寄りください。墓地やご葬儀、ご法事などのご相談もお受けいたします。
当山との御仏縁によって、ますますのご多幸が訪れますよう心より御祈念いたします。
普濟寺の歴史
― 金枝城の守り、祈願所・菩提所として ―
― 金枝城の守り、祈願所・菩提所として ―
普濟寺(ふさいじ)は、栃木県さくら市(旧 塩谷郡喜連川町)金枝(かなえだ)の主要地方道、烏山~矢板線沿い東にある。三光山清光院と号し、真言宗智山派、本尊大日如来。永禄2年(1559)の創建。開山は、沢観音寺(矢板市)の大和尚宥哲(ゆうてつ)と伝える。
金枝は古く「金井田」と称し、稲穂が実る意味を合わせた「金井田」から、後に「金枝」と転じた。大同2年(807)には民家2戸あり。もとは下野国那須郡酒主郷に属し、普濟寺周辺からは奈良・平安時代のものとみられる遺物が出土している(普濟寺周辺遺跡、山の神遺跡、上金枝遺跡)。
普濟寺の大檀那は、那須氏に属した土豪金枝氏。南北朝時代の正平・元中年間(1346~1392)、那須氏9代当主 那須資藤(すけとう・?~1355、『太平記』に出づ)の4男隆経が、この地に分家し、地名を取って金枝備中守を名乗ったことに端を発する。小字 裏山(通称 お城山)に本丸・二の丸などを有する城跡があり、金枝氏の築城。空堀や土塁、櫓台跡や大手門跡などの遺構が残る(金枝城跡)。南西方向には、要害としての意味も有する江川が流れ、喜連川城(大蔵ヶ崎城)から宇都宮軍に相対する那須氏最前線の平山城であった(天正18年〔1590〕廃城)。
『那須記』には、応永20年(1413)の沢村城合戦に金枝左ェ門義隆の名が見え、天文18年(1549)喜連川五月女坂(早乙女坂)合戦の那須勢の中に金枝近江守義高、永禄10年(1567)烏山・大崖山合戦には上那須衆として須藤金枝近江守泰晴など下那須宿老格の名が散見。天正13年(1585)の薄葉原の戦いには金枝土佐守金吾光任が加わっている。
なお、金枝の指定村社である温泉神社は、天文18年(1549)10月に那須隆惟によって造営された。祭神は大己貴命・少彦名命、他に配神5柱。那須与一宗隆が心中に祈願した温泉八幡を分祀した社と伝える。
普濟寺の起源は、こうした各地に転戦する金枝郷士の祈願所・菩提所として金枝城東側の小字 内越(うちこし、現寺地裏山の高台)に薬師瑠璃光如来堂(通称 薬師様)を建立したのに始まる。この薬師堂は、天文元年(1532)4月8日、金枝城主であった金枝近江守源宗道が創建。天正2年(1574)3月8日、黒尾八郎左衛門源宗義のものとなるに至って普濟寺に寄進された。
正徳4年(1714)3月8日、沢観音寺の宥誉法印が、中興の祖(12世)となって現在地の小字 屋敷通(やしきどおり)に伽藍を移築造営。現存 薬師堂に安置されている薬師如来像および十二神将像はその時期の開眼。台座に宥誉の名が残る。なお、旧地には経文を埋め、宥誉の墓碑(元文2年〔1737〕)を建立。この塚の場所を「三部経塚」という(現在、墓碑は薬師堂隣に移転)。文化7年(1810)2月27日、火災により本堂全焼するも、天保7年(1836)尊海和尚(17世)に至って再建。本尊大日如来を安置。境内池に弁才天を祀る。
学制公布により、明治6年(1873)普濟寺をもって第40番中学区第40番勧善学舎とし、金枝村・鹿子畑村・七合村を学区とした。明治11年(1878)鹿子畑村との共立で、普濟寺を仮校舎のままに勧善学校を称し、鹿子畑小学校、上江川第二尋常小学校、金鹿小学校(平成22年〔2010〕喜連川小学校へ統合)へと受け継がれている。
先代の髙橋秀道(32世)代に至り、昭和53年(1978)11月に庫裡を新築整備、昭和59年(1984)11月に本堂・薬師堂を改修、平成6年(1994)11月12日に戦没者終戦五十回忌法要、平成23年(2011)3月11日に東日本大震災復旧工事を行う。
現住職の髙橋秀城(33世)代に入り、普濟寺の永代供養塔を建立。令和3年(2021)5月25日(大安)に開眼法要を行う。
※(『那須郡誌』『金枝沿革誌』『喜連川町誌』『日本歴史地名大系』『日本城郭大系』『栃木県神社誌』『喜連川町史』等参照)